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リビングウィル(事前指示書)ー死についての自己決定の課題

更新日:2020年9月1日

誰もが未経験な死

死の自己決定を行うことということに関しては、死を経験してない以上、それは、理解可能ではないということが問題です。

死が曖昧なものと感じる以上は、個人の医療への対応も曖昧なものにならざる得ません。

実はこの曖昧さを一部片付けておかなければならないが、次のような課題があるということです。

「生の曖昧さの中で、生きることにおいて、実はなんの決定もできていないのに、「死の作法」を決めること」

病院において、私たちが「死を決定する」ということは、「医師による消極的な自殺介助を選択する」ことになります。

医師によらない死については、次のような話もあります。


吉本隆明は、考えも及ばない生と死について、


「本当言えば、いちばん語りにくいのが、その生と死の問題です。事故は偶然の出来事で、自分は死の手応えがちっともなくて、思わぬところで眠りこけっちゃった程度のことが実感なんです。ただ後で意識がなかったことを聞きました。ですから、死に損なったことを重大に考えたほうがいいのか、あっさり考えたほうがいいのか、最も難しい問題かな、と思っています。」(超高層のバベル 見田宗介対話集 講談社選書メチエ 吉本隆明の言葉から)


医療と対峙しなければ、このようなことと考えることもできます。リビングウィルは他者との関係で必要となってくるということが認識されます。


日本の状況ー医師の判断

日本の死の判断は、脳死は臓器移植状況下では認められている状況(法的脳死)ですが、西欧の状況とは異なるー医療現場では、死の判断の困難さの中を進んでいます。


死を医療関係者は簡単には見極められない。生物学的な死と法的な死は違います。溝は絶対に埋まることはなく、法的な仕組みの中で、死を決定していくという作業を医師はさせられているということになります。医師の負担は大きく、それだけに、事前指示は必要な場面も多くなると考えます。

現代の死は数の認識、災害での死

一方、社会は、自殺率の増大、引きこもる状況など、リアルな現実の死を感じることを失った状態のまま、社会が共有する習慣が強力なネットワークの「死」が、単純化、均質化して伝達されていきます。災害においても、病死数でも、死が数へと還元されるプロセスを人は経験しています。


熊本県の大雨による災害での死は、ほとんどは老人であったということの意味と集落の維持の限界は同時に語られています。集落は日々の生活者のたゆまぬ活動で維持されています。

一日でも休めば、自然は容赦なく、生活を覆い尽くすほどの力があるーそれは、老人の力で支えられていたということでもあります。


長期的な考え方に立てば、遠くない将来、大災害ではなくとも、集落の終わりがあったとも考えられます。人間の生は、本来、現実を支えながら、共存の枠組みの中にあるともいえます。


リアルな生を生きているかどうかという視点に立つと、人気のあるゲームやアニメで、勇気や決断や冒険を仮想の現実を生きるものを経験し、現実の死は非現実の世界にあることを頭の中に刷り込んでいる生きている私たちよりも、「死を選ばされた」と定義されたとしても、営々と現実の中を生きていたのだと思います。


私たちは、仮想の現実を脳の構造の中に繰り返し「快」として繰り返し、一度固定されたものは容易に変更することができません。


個人は不快な「肉体の死」を意識化できないまま、現実の死へと向かうことになることになります。

死ぬこと、その場所、慣習としての病院死

さらに、死ぬという現実は、病院内で隔離されたなかで、処理されるーおこなわれるものであるという慣習を形成しています。この現実を逃れることができないままで、考えなければならないーこの明らかな現実の中、リビングウィルを作る難しさを感じます。

医療の進歩による逡巡への対応としてのリビングウィル

リビングウィルを作成する意味は、意識を失ったときのことを考え、医者や家族に指示をしておくことが望ましいとの考え方にあります。

リビングウィルの課題は、そのまま、現実の社会の問題と直結することになります。

延命・救急医療の進歩、個人の死への社会介入、先に説明した個人の意識の問題が、埋めきれない曖昧さをこの事前指示で埋めることはできないということでもあります。

リビングウィルのおおよその定義は、

末期の状況で意識が戻らない、精神的能力の損傷の状況で、自分の選びたい、選びたくない治療についてあらかじめ意志を表明しておくことです

生前発効の遺言ともいえるのですが、補完的に代理者を指示しておくことを考えることも検討の必要があります。

事前指示の内容は、

  1. 疼痛緩和の場合、副作用のレベルー意識を失う疼痛緩和を望むか

  2. 回復不能の意識不明の場合の取り扱い

  3. 栄養状態の維持、心肺の蘇生


などのことを指示することになります。

病院は法律とガイドラインによって、患者の生命を守ることを一義に病院組織及び医療関係者を守ることで生成されていることから、事前指示の内容が実現できない場合もあるということを考えておかなければなりません。


おわりに

事前指示として参考になるもので、日本尊厳死協会のもの、アメリカの「五つの願い」などがあります。100%のものは、存在しないと思いますが、具体的に考える契機として閲覧しておくことをお勧めします。


ただ、様式ではなく、「自分の言葉で一度書いてみる」ことをお勧めします。定式化したものに対する違和感は、あなた自身を理解する契機であることは、間違いないことだと思います。


必要なのかそうでないのかはあなた自身が決めることでもあります。まずは、書いてみることです。


(参考)五つの願い

五つの願いは

  1. 私が意思を決定できなくなったとき代わりに意思を決定してほしい人は

  2. 私が受けたいもしくは受けたくない医療行為は

  3. 私が心地よく過ごせるようにするためにしてほしいことは

  4. 私が人々に求める介護ケアは

  5. 私が愛する人々に知ってもらいたいことは

の5項目で構成されています。


ここで大切なことは、ケア(Cura)の概念を持って、記載するということです。

自分と愛する人に対する、気がかりや献身、配慮を記載することが大切です。


このことは、事前指示に限らず、民法上の遺言においてもかわりないと思います。


ケアについては、

『「ケア」とは、まず、あることをする者とされる者との関係である。セルフケアはその派生形態であり、ケアする自分とされる自分の関係と考えられる。そして、ケアにおいて成立する関係とは、一方が苦痛除去や生活改善のために要求していることに他方が援助や気づかいによって応え、それが相手によって受け入れられるという関係であり、その意味でケアとは相互関係といえる。つまり、ケアとは、たとえば籠(相手)に玉(世話、気遣い)をいれるような一方的で単純な行為ではなく、はるかに複雑かつデリケートな行為である。つまり、相手が求めることに対して熟慮して応え、それが相手に受け入れられるといった双方向的行為である。』(生命・環境・ケアー日本的生命倫理の可能性ー高橋隆雄著 九州大学出版会)


ケアは、ネガティブな感情を伴うことがあります。「気遣い」で疲労するというデリケートなものです。


私たちは、「気遣い」をしつつ、事前指示を記載することが、相手を救いとる手立てとなります。その時、瑞々しい朝の花々のように美しい指示書も可能なのではないかと思います。





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